白い石を運ぶべし!-其の壱
2013-08-15
八月九日の10:03、定刻通りひかり号が発車した。今時、何故ひかり号かって
・・・ジパング倶楽部利用者が二人もいたからである。
比較的早めに予約して上手く席が確保できたこともあり、ボックス席と化した我が一行の内で朝飯抜きの面々は、多摩川を越えた辺りで既に弁当を開き、やや高級なそれをあっという間に平らげる。もっと味わえよぅ・・・と思いつつも、個々に満足顔をしていたんでまぁ仕方がない。自分も出発前に
を買い込んで飲み始めたから、なおさら仕方がない・・・っておい
この日は、既に30℃を超えてかつ湿度の高い日だったから多分富士山は拝めないなぁ・・・と思ったが、案の定全く見えず。東海道新幹線の東京-名古屋間には然したる風光明媚な風景は無いから、ビュンビュン飛んでいく車窓を眺めていてもあまり面白くなく、専らペチャクチャと会話の花が咲くばかり。しかも「2時間」なんてあっという間で名古屋着。下車すると、35℃付近の気温であろう「熱風」と「湿気」が身体を包み込んでくるため、やや急ぎ足で(と言っても、ジパング×2名の歩調に合わせて)近鉄のプラットフォームを目指した。
最近は切符の手配も殆どネットでできてしまうが、今回初めて「チケットレス」で近鉄の特急券を購入した。カード払いで先に購入し、確証となるホームページの表示データを印刷して持参するとそれが特急券代わりになる。スマホや携帯にそのぺージを表示するだけでも大丈夫との由。初めてのことだったためA4用紙に印字して持参したが、とりわけ出番もなく・・・何れにしても便利な世の中になったもんだ。
乗り換え時間には思い思いに軽食や菓子を買い込み、自分は無論
と柿の種という「黄金律的飲食物」をさらに買い込んで、12:50に名古屋駅を出発した。
名古屋駅から次の桑名駅までの間には大小沢山の川を渡っていく。町並みが変わっても、流石に川の数が大幅に変わってしまうことはなく、一際大きな「木曽川」を越えると三重県に突入・・・高校生になる前までは、夏休みと冬休み、オマケに春休みにも通ってきた近鉄名古屋線の車窓は、やはり郷愁に似たノスタルジックな気持ちにさせてくれるのである。おしゃべりの多い我が一行だが、一頻り名古屋までに話を済ませたかのように少し大人しくなってくれたこともあって、暫くはこの妙な気分に心を委ねることができた。
桑名を越えると、次は四日市。プラントやコンビナートばかりだったこの一帯は、自分が小学生の時分から緩やかに狭まっていき、今ではさほど大きな工業地帯ではなくなった。当時は、学校で習った「全国の公害病」の一つに数えられていた四日市喘息を恐れ、四日市駅で電車のドアが開くと息を止めていたことを思い出す。無論、何の意味もない行動だが、いつも同行していた弟も必至になって息を止めていた表情を思い出した。
駅名最短の日本一「津」を過ぎると、次は白子だ。この旅行のことを鈴鹿高専出身の会社の若手に話したら、「白子の町は結構変わったと思いますよ」と言われた。昔の何もない駅の風景を思い出しつつ白子駅に着いたら、確かにちょびっと綺麗にはなっていたものの、やはり「発展途上」みたいな感じだった(白子の方、ゴメンナサイね)。
伊勢中川(ここは祖父の実家がある所)を越えて松阪に着くと、そろそろ周辺の地理が解ってくる。昔から「もうすぐ田舎に着くぞ」という高揚を感じ始める駅であることから、車窓の風景の記憶が濃くなっているとでも言えばいいのか・・・。ここから近鉄山田線に入るわけだが、櫛田川を渡って暫し田んぼを眺めていると、一際大きな「宮川」に差し掛かる。今回のお白石持ちの「白い石」は、この川の上流で拾い集められているわけだが、随分と上流の方に行かないと既に拾えないそうだ。無論、近鉄の鉄橋はかなり下流を渡っているため、河原を見たって白くは見えない。
宮川を渡れば、もう伊勢市駅は目の前だ。普通列車の停車駅である一つ手前の「宮町」という小さな駅の近くに母の知り合いの家があって、そこにも随分遊びに行ったものだが、既に取り壊されて無くなったらしい。
そして、一旦列車の旅は伊勢市駅で終え、タクシーに分乗して外宮前の母の実家に向かった。 十八年ものご無沙汰である。
本当は、駅の表側から歩いて5分くらいの所なんで、別にタクシーでなくても・・・なんだが、例の「ジパング団」(遂にこんな呼称になってしまった)を電車のクーラーで冷えた身体のまま歩かせるのもどうかと思い、駅裏からちょいと遠回り。
それにしても、このあっさりとした駅名の看板・・・こんなものさえ無い粗末な駅の裏口だったが、真新しいところを見ると、どうやら今回のご遷宮に合わせて付けられたのではあるまいか
母の実家は本当に外宮の直ぐ傍にある。「本町」という町名からして伊勢市の中心街であることは確かなんだが、昔からあまりパッと開けている雰囲気ではなく、外宮を背負った比較的「大人しい住宅街」といった感じだ。そして、我が愛すべき「田舎」たる母の実家の軒先では、この地方独特の注連飾りが迎えてくれた。
この注連飾りの由来は他に譲ってしまうが、これを一年中飾っておくという風習が面白いところである。正月には、これのちっこい奴を車の前部に付けて走っちゃう。町中、「締め飾り号」が走っているわけだ。それが、時々道に落ちていたりして結構笑えるが、別にこの笑門の「笑」は「笑い」とは関係ない(興味のある人は自分で調べてね)。
挨拶を交わして直ぐに仏壇に手を合わせると、懐かしい伯父はタイミング悪く翌日の準備のためにすれ違いで出かけて行ってしまった。すると、伯母と母がマシンガントークを開始。こうなると放っておけばよく、自分はここぞとばかり、滅多にお邪魔しない母の実家にある懐かしいもの・・・掛け軸やら屏風やらといった代物を、片っ端からカメラに収めるという取り組みがあったため、あちこちパチパチ、パチリンコとデジカメに収めるのに忙しかった。そんな中で、絶対に撮っておきたかったのがこれだ。
何やら怪しげな小さな灯籠・・・お、お値打ちものか
というのは全く関係ない。実は、この灯籠の向こうにミドリガメが二匹眠っている。小学校低学年の頃、春先から近所で買ったミドリガメを育てていた。夏休みを迎え、丁寧に運んできた彼らは新居の水槽でずっと元気だった。ところがある日、その水槽に「五十鈴川」で取ってきたサワガニを入れたら、どうやら目を突っつかれたらしく目玉が真っ白になり、数日後に死んでしまった。そして、アイスキャンディーの棒に名前を書いた墓標を立て、この灯籠の後ろに埋めたのだ。
その年の冬休みに再び遊びに来た際には既にキャンディー棒の墓標は無くなっていたが、それ以来、この灯籠を二匹の墓石と決め、毎度母の実家に来てはこの灯籠を見て、二度と動物は飼わないと誓ったものだ。改めて合掌。
写真撮影に一段落すると、明日の法被のファッションショー・・・ではなく、身体のサイズに合ったものの奪い合い。自分はかなり大きいものでないと中年太りのお腹が隠れないなぁと笑われる始末
明日の待ち合わせ場所の調整は母任せ。改めて伯母と少し談笑しておいしいブドウを頂くと、そろそろお暇の時間。「ほしたら、また明日・・・」と母の実家を後にした。
流石に伊勢市駅まで5分くらいの道のり・・・ジパング団を除く一行は駅まで歩くことにした。伊勢市駅前から外宮までの目抜き通りは500mほどだから、それより少し短い距離のそぞろ歩きだ。
内宮と外宮周辺の主要道路には、奉納された石の灯籠が立っている。手入れが行き届いたものは、夜になると明かりが灯って神宮周辺の風情を醸し出す。ところが、これら灯籠も老朽化著しいことから地震等による倒壊の危険性が指摘され、撤去する旨の事案があるらしい。灯籠には奉納者の名前が刻印されているため、その方々を探して撤去する旨伝えようとしたものの、かなり古いものも存在して連絡が付かず・・・結局この事案も宙に浮いてしまっているようだ。
観光客としてみれば、折角の灯籠を撤去するなんて・・・と思うが、確かにこんなものが倒れかかってきたら・・・と思うと、そうそう簡単に「反対派」にはなれない。
慣れ親しんだ伊勢市駅の古い駅舎は、見事にリニューアルされていた。
まぁ、何となく綺麗に塗った・・・といった気がしないでもないが、大勢が行き交う割にはパッとしなかった伊勢市駅も、そこそこの面構えにはなっただろうか。個人的には、あの階段が傾斜して下りるのが怖かった昔の駅の方がしっくり来るが、これも「移り変わり」として受け止めていくべきことなんだろう。
今日、明日の宿は鳥羽のホテルに取った。伊勢市から20分も掛からないこの地も、小さい頃のノスタルジアが詰まった街だ。漁港であることから海の幸は豊富、水族館を始めとする施設もあって毎年多くの観光客で賑わっている・・・と思う。そして、これまた母の知り合いに気を配って頂き、良い部屋を用意して貰った。
とにかく暑かった一日、荷物を置くと直ぐに温泉へ直行し、ほっと一息つけば既に夕暮れである。夜の帳が迫る鳥羽の海を記念に一枚。眼下に海、島を見渡せるという何とも豪勢な「お泊まり」である。
夕食はバイキング。我が家の子供達(といっても、結構大きいが・・・)は育ちの良さを発揮して(
)それこそてんこ盛りにいろんなものを持ってきては平らげ、それを繰り返す有様。かく言う自分は、
をグビグビと飲み干してはウェイターが困るほど何杯もお代わり・・・我が家の名誉のため、この模様は伏せておくことにする。
本日の締め括りは「夜の海」だ。
初めての夜景撮影・・・慣れないシャッタースピードで手元がぶれているが、眼前の島の明かりが波に写る様が大変美しかった。明日に備え、夜半過ぎには床についた。

比較的早めに予約して上手く席が確保できたこともあり、ボックス席と化した我が一行の内で朝飯抜きの面々は、多摩川を越えた辺りで既に弁当を開き、やや高級なそれをあっという間に平らげる。もっと味わえよぅ・・・と思いつつも、個々に満足顔をしていたんでまぁ仕方がない。自分も出発前に


この日は、既に30℃を超えてかつ湿度の高い日だったから多分富士山は拝めないなぁ・・・と思ったが、案の定全く見えず。東海道新幹線の東京-名古屋間には然したる風光明媚な風景は無いから、ビュンビュン飛んでいく車窓を眺めていてもあまり面白くなく、専らペチャクチャと会話の花が咲くばかり。しかも「2時間」なんてあっという間で名古屋着。下車すると、35℃付近の気温であろう「熱風」と「湿気」が身体を包み込んでくるため、やや急ぎ足で(と言っても、ジパング×2名の歩調に合わせて)近鉄のプラットフォームを目指した。
最近は切符の手配も殆どネットでできてしまうが、今回初めて「チケットレス」で近鉄の特急券を購入した。カード払いで先に購入し、確証となるホームページの表示データを印刷して持参するとそれが特急券代わりになる。スマホや携帯にそのぺージを表示するだけでも大丈夫との由。初めてのことだったためA4用紙に印字して持参したが、とりわけ出番もなく・・・何れにしても便利な世の中になったもんだ。
乗り換え時間には思い思いに軽食や菓子を買い込み、自分は無論

名古屋駅から次の桑名駅までの間には大小沢山の川を渡っていく。町並みが変わっても、流石に川の数が大幅に変わってしまうことはなく、一際大きな「木曽川」を越えると三重県に突入・・・高校生になる前までは、夏休みと冬休み、オマケに春休みにも通ってきた近鉄名古屋線の車窓は、やはり郷愁に似たノスタルジックな気持ちにさせてくれるのである。おしゃべりの多い我が一行だが、一頻り名古屋までに話を済ませたかのように少し大人しくなってくれたこともあって、暫くはこの妙な気分に心を委ねることができた。
桑名を越えると、次は四日市。プラントやコンビナートばかりだったこの一帯は、自分が小学生の時分から緩やかに狭まっていき、今ではさほど大きな工業地帯ではなくなった。当時は、学校で習った「全国の公害病」の一つに数えられていた四日市喘息を恐れ、四日市駅で電車のドアが開くと息を止めていたことを思い出す。無論、何の意味もない行動だが、いつも同行していた弟も必至になって息を止めていた表情を思い出した。
駅名最短の日本一「津」を過ぎると、次は白子だ。この旅行のことを鈴鹿高専出身の会社の若手に話したら、「白子の町は結構変わったと思いますよ」と言われた。昔の何もない駅の風景を思い出しつつ白子駅に着いたら、確かにちょびっと綺麗にはなっていたものの、やはり「発展途上」みたいな感じだった(白子の方、ゴメンナサイね)。
伊勢中川(ここは祖父の実家がある所)を越えて松阪に着くと、そろそろ周辺の地理が解ってくる。昔から「もうすぐ田舎に着くぞ」という高揚を感じ始める駅であることから、車窓の風景の記憶が濃くなっているとでも言えばいいのか・・・。ここから近鉄山田線に入るわけだが、櫛田川を渡って暫し田んぼを眺めていると、一際大きな「宮川」に差し掛かる。今回のお白石持ちの「白い石」は、この川の上流で拾い集められているわけだが、随分と上流の方に行かないと既に拾えないそうだ。無論、近鉄の鉄橋はかなり下流を渡っているため、河原を見たって白くは見えない。
宮川を渡れば、もう伊勢市駅は目の前だ。普通列車の停車駅である一つ手前の「宮町」という小さな駅の近くに母の知り合いの家があって、そこにも随分遊びに行ったものだが、既に取り壊されて無くなったらしい。
そして、一旦列車の旅は伊勢市駅で終え、タクシーに分乗して外宮前の母の実家に向かった。 十八年ものご無沙汰である。

本当は、駅の表側から歩いて5分くらいの所なんで、別にタクシーでなくても・・・なんだが、例の「ジパング団」(遂にこんな呼称になってしまった)を電車のクーラーで冷えた身体のまま歩かせるのもどうかと思い、駅裏からちょいと遠回り。
それにしても、このあっさりとした駅名の看板・・・こんなものさえ無い粗末な駅の裏口だったが、真新しいところを見ると、どうやら今回のご遷宮に合わせて付けられたのではあるまいか

母の実家は本当に外宮の直ぐ傍にある。「本町」という町名からして伊勢市の中心街であることは確かなんだが、昔からあまりパッと開けている雰囲気ではなく、外宮を背負った比較的「大人しい住宅街」といった感じだ。そして、我が愛すべき「田舎」たる母の実家の軒先では、この地方独特の注連飾りが迎えてくれた。

この注連飾りの由来は他に譲ってしまうが、これを一年中飾っておくという風習が面白いところである。正月には、これのちっこい奴を車の前部に付けて走っちゃう。町中、「締め飾り号」が走っているわけだ。それが、時々道に落ちていたりして結構笑えるが、別にこの笑門の「笑」は「笑い」とは関係ない(興味のある人は自分で調べてね)。
挨拶を交わして直ぐに仏壇に手を合わせると、懐かしい伯父はタイミング悪く翌日の準備のためにすれ違いで出かけて行ってしまった。すると、伯母と母がマシンガントークを開始。こうなると放っておけばよく、自分はここぞとばかり、滅多にお邪魔しない母の実家にある懐かしいもの・・・掛け軸やら屏風やらといった代物を、片っ端からカメラに収めるという取り組みがあったため、あちこちパチパチ、パチリンコとデジカメに収めるのに忙しかった。そんな中で、絶対に撮っておきたかったのがこれだ。

何やら怪しげな小さな灯籠・・・お、お値打ちものか

その年の冬休みに再び遊びに来た際には既にキャンディー棒の墓標は無くなっていたが、それ以来、この灯籠を二匹の墓石と決め、毎度母の実家に来てはこの灯籠を見て、二度と動物は飼わないと誓ったものだ。改めて合掌。
写真撮影に一段落すると、明日の法被のファッションショー・・・ではなく、身体のサイズに合ったものの奪い合い。自分はかなり大きいものでないと中年太りのお腹が隠れないなぁと笑われる始末

流石に伊勢市駅まで5分くらいの道のり・・・ジパング団を除く一行は駅まで歩くことにした。伊勢市駅前から外宮までの目抜き通りは500mほどだから、それより少し短い距離のそぞろ歩きだ。

内宮と外宮周辺の主要道路には、奉納された石の灯籠が立っている。手入れが行き届いたものは、夜になると明かりが灯って神宮周辺の風情を醸し出す。ところが、これら灯籠も老朽化著しいことから地震等による倒壊の危険性が指摘され、撤去する旨の事案があるらしい。灯籠には奉納者の名前が刻印されているため、その方々を探して撤去する旨伝えようとしたものの、かなり古いものも存在して連絡が付かず・・・結局この事案も宙に浮いてしまっているようだ。
観光客としてみれば、折角の灯籠を撤去するなんて・・・と思うが、確かにこんなものが倒れかかってきたら・・・と思うと、そうそう簡単に「反対派」にはなれない。
慣れ親しんだ伊勢市駅の古い駅舎は、見事にリニューアルされていた。

まぁ、何となく綺麗に塗った・・・といった気がしないでもないが、大勢が行き交う割にはパッとしなかった伊勢市駅も、そこそこの面構えにはなっただろうか。個人的には、あの階段が傾斜して下りるのが怖かった昔の駅の方がしっくり来るが、これも「移り変わり」として受け止めていくべきことなんだろう。
今日、明日の宿は鳥羽のホテルに取った。伊勢市から20分も掛からないこの地も、小さい頃のノスタルジアが詰まった街だ。漁港であることから海の幸は豊富、水族館を始めとする施設もあって毎年多くの観光客で賑わっている・・・と思う。そして、これまた母の知り合いに気を配って頂き、良い部屋を用意して貰った。
とにかく暑かった一日、荷物を置くと直ぐに温泉へ直行し、ほっと一息つけば既に夕暮れである。夜の帳が迫る鳥羽の海を記念に一枚。眼下に海、島を見渡せるという何とも豪勢な「お泊まり」である。

夕食はバイキング。我が家の子供達(といっても、結構大きいが・・・)は育ちの良さを発揮して(


本日の締め括りは「夜の海」だ。

初めての夜景撮影・・・慣れないシャッタースピードで手元がぶれているが、眼前の島の明かりが波に写る様が大変美しかった。明日に備え、夜半過ぎには床についた。
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